昭和43年6月21日   夜の御理解
 【入力者: 末長 満】

 二代金光様のお言葉の中に「真と成就せんことなし真に成就せん時には真がくれたと悟れ」と、いう、まぁ、信心のぎりぎりのこれは(?)み教えですね。お互いが真心は本当はできておりなくても、おかげを頂いておるのでございますから、もうふかん、不完全な真心で信心でおかけを受けておる。

 ですから、どうしもおかげが頂けないという時にはやはり、もっともっと真心の追求をして、真心にはならなきゃならんかということが分かります。同時に今日はこんなことがありました。

 ある方が、お参りをしてきたんです、ある教会のご信者さんです。私もよく知っておりますが、もううちの先生はもうどんなに私共が真心でしちゃったそれを反対で受けたごたるふうで、もうたがいぶかくてもう私には参ろうとなかちいうてから、言われるわけですよ。

 だからそのことを(?)お届けをさせて頂きよりましたらですね、(?)、例えばいくらまご、真、真心の鍵をもって開けてもね、開けようとしてもこちらが、相手がくれとったら開かんという。

 私はこれを頂いてからですね、ほんとにあのこれは四神様のお言葉をそのもういっちょう深いということ、深さを考えにゃいけないなと思いましたよ。もうほんとに真心で、真それで(?)、もうお供えやらもっていったり何か形やらどうでするととても(?)。

 けれどもそうでない。ほんとにこち、これこそ自分の真心というのことはこれは分からんもんだからそれは反対に断る。ほんと私は先生自身そのことは向こう申ししませんでしたけれどもです、ほんとになら私はあのその真ならかげたということでもね、私はあのそのいっぺんにひまごころ込めたからというて、それが繰り返されていくうちに、通うのですから。

 もうやはりお願いいうなら、祈る心を教えてならんですね。(?)申しましたけれども、私自身頂いてですね、成る程これはそげん私にも体験のいくらもあるです。(?)。真心でしよるつもりだけれども、お祭るつもりだけれども、相手が反対に返ってくる。

 数えてその何かその人に機縁のおったもんならば、こちら真心込めとらんものでもです、大変喜ばれるといったようなことがありましょうが、ね。とにかく向こうはもうその形でさえよかという。

 ですから、いわゆる、真の真心の鍵をもって開けても相手がくるれておったら開かないということ、ね。ですから、場合によってはならこれをどうでも開けねばならん時には、(?)苦しいでも開けれる方にしかたがないということにつなげます。ね。

 ですからそういう場合ですね、ものやら例えば、金やらで向こうの関心を買わなんというなことは、一つ本気で止めてですね。もうとにかく真心もてば祈りに祈っていく以外にはないということですね。

 これはまた一言だけじゃない。自分自身のことだって、自分相手が皆に真心でして、思ってくれしてくておっても、こちらの心が崩れておったんでは、そこの相手の真心とこちらの心が通わんはずがないのです。

 神様の心だって同じことね。私共のその真と思っておる、その真を本当に追求していく時にです、神様の心の扉を開くということは、やはり、これは精神、真心にならなければできる限りない美しい心から生まれてくる、心でなからなければならんことが分かる。

 今日は私はその真心ということについてその真心で成就せんことないということを簡単に考えておると、これだけ真心でしよるのに相手の方が通じないと。これほど真心で思いよることは、それは真心の方が本当いうたらかげておるとうことでもありましょうけれども、相手が崩れておったんでは、例えば、いくら真心もっていってしても開かない。

 そこでこれ生き方というものをそこからもう一つ通い合いなければこっちも助からん相手も助からんということになりますですね。どうぞ。